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170年の時を超えて再会

2022年4月

 先日、兼ねてより楽しみにしていた"ある方"とお目にかかることができた。
今から遡ること6代前、1850年台に3代増田安次郎は2人の弟と力を合わせ、黒船の脅威に対抗するため、大砲造りに心血を注いでいた。その"ある方"とは、3男数之助の末裔で、170年ほど遡ったところで血縁が繋がる。当然、苗字は増田さん。浅草の神谷バーの隣でお茶と海苔を販売する増田園総本店を営んでおられた。

慶應3(1867)年創業で155年の歴史を刻んでこられた。お目にかかる前はとても緊張した。170年前の親戚の方に会うのだから、嬉しいよりも緊張が先走った。ひょっとしてそっくりだったらどうしよう?など要らぬことまで頭をよぎったが、実際は「近しい親戚に似た人がいる」と感じた。大砲を造っていた人がなぜお茶の仕事を始めたのか、とても不思議だった。
実は、数之助は当時軍艦奉行であった勝海舟ととても親しかったようで、海舟から直筆の墓碑までいただいている。今で言えば「営業担当」として海舟と接していたようで、「海舟座談」(岩波文庫)にも数之助の名は登場する。また勝家の墓石に寄り添うように増田の名を刻んだ小さな墓石がある。我が増田と関係があるか否かは不明だが、大いに気になるところだ。

 明治に入り大砲の需要がなくなろうとしていた時、海舟が幕臣たちに命じて静岡の牧ノ原台地(現在の島田市)に茶畑を開墾させ、製茶の普及に尽力したという。
NHKの歴史秘話ヒストリアのページには『江戸から明治への大転換、江戸無血開城を行った勝は、その直後から幕府崩壊の後始末に奔走する。失業し、生きる術を失った徳川家の家臣たちのために、政府や全国の大名家への再就職を斡旋。さらに、幕府崩壊に不満を持つ武士たちを、言葉巧みに抑え込みながら、自立の道へと促していく。それが、徳川家の移住先だった静岡での茶畑開墾だった。』と記されている。

驚いたのは、増田園総本店さんと増幸産業は、家紋も社章も同じだった。当然と言えばそうかもしれないが、何やら不思議な感じがした。