江戸時代の終わり頃 、日本の近海にはロシヤ、イギリス、フランス、アメリカ等の 外国船が来航し、鎖国していた日本にたいし開国を強くせまった。
幕府首脳や武士達は、諸外国が日本の領土をおかす野心ありと思った。
外国の脅威を感じた幕府は文政八年(1825)、外国船打払令を出した。
弘化元年(1844)、函館、国後、江戸の台場を始め、各所に砲台を据え、守護兵を置き、異国船の近海への出没を警戒するようになった。
しかし、 当時はまだ、 大砲もろくにない状態で、打払い等ができる力はなかったようである。 その頃 、穣夷思想の盛んな水戸、薩摩、長州、肥前、土佐の各藩では、海防のための大砲製作に必死の努力がなされた
← 下関戦争
この写真に写っている大砲をパリで発見!
国防急を告げるとき、当時の川口の鋳物師達は 、日常品の鍋釜ばかりでなく、武器類の鋳造もするようになった。
なかでも、増田金太郎、安治郎が海岸防備用大砲を鋳造し 、その功績をたたえられ、苗字を許された。
安政六年(1859) 当時の砲術氏高島秋帆より、増田氏が、「独自の大砲を開発し国家の千城である」とまでほめられている。安治郎は当時の 鋳砲鋳物師の第一人者であったといえる。
当時の大砲は 先込式で、中子を入れて中空の砲身を鋳造し 、内面を仕上げる方法で、青銅砲と鋳鉄砲があり、砲身にも長短の二種類があって、短砲をホイッスル砲、長砲をカノン砲といった。 安治郎は各種の砲を作っていたようである。